『ハーモニー』について…感想…というか、初期の感想

前回の予告通り、今回は『ハーモニー』について。

と言っても、前回の内容は非公開にしたけれど。

こんなに最初のどうでもいい話の内容が思い浮かばないのは初めてだな。

 

僕が『ハーモニー』を知ったのは前に書いたとおり、アニメーション版を観たから。

その時の感想は、

「何だこれ、何が言いたいんだ。」

これに限る。

これの…この感想の凄さというのは、もう少し説明しなければ伝わらない。

ということで、少しの説明を。

僕は、小説を読むとき、映画を観るとき、

「作り手は何を伝えたいんだろう。」

なんて不毛なことは考えない。

考えないようにしているし、先程不毛といったように、そんなことは全くもって無駄な行為であり…言葉を忘れた。

要するに、そんなことをする必要は全くないと考えているわけだ。

が、しかし、『ハーモニー』を観たあとどう思った?

前言撤回して、もう一つの感想を加えよう。

「そんな簡単なことを伝えたいわけじゃないはずだ。」

こんな感想まで抱いていた。

すでに、無意識のうちに、"作り手の意図"を探していたのだ。

これで、『ハーモニー』が僕にとっていかに異端で、すごい作品であるかが分かるだろう。

 

自分の意に反して、"作り手の意図"を探らせたこの作品は、この作品について、伊藤計劃について調べると、より、圧倒的に面白くなる。

しかし、これから先はできることならば、これから読んでみようという人には読んでは欲しくない。

これ以降の内容は当たり前に、できるだけネタバレを避けている。

しかし、それでも、"伊藤計劃という人物について知らない者が読む『ハーモニー』"と"伊藤計劃についてある程度知った上で読む『ハーモニー』"という差が楽しめるのは、伊藤計劃を知らない状態で読んだものに限られるという事実から、避けてほしいと思う。

深みが増すのだ。

僕の感じた、底知れぬ深みに、更に深みが増すのだ。

底知れぬ深みを知らぬ者にとって、その更なる深みに対する恐怖心というものは酷くちんけなものとなってしまうのだ。

…少し言葉を間違えているが、まあいい。

もう少しで一度立ち止まってほしい領域に入るという部分の前にはもう一度警告をする。ぜひ、慎重に読み進めてほしい。

 

それでは、簡単に説明しよう。

伊藤計劃は所謂geekで、映画や小説、アニメ、ゲームに精通していた。

その結果、『虐殺器官』と『ハーモニー』には様々な作品からの引用が見られるようになった。

この間、ビブリオバトルで『ハーモニー』を紹介している動画を観たが、そこでも言っていたものを一つ例に挙げよう。

『ただの人間には興味がないの』

これはあくまでも、『ハーモニー』からの引用だ。

しかし、このセリフを知っている人もいることだろう。

こういった引用が随所に隠れている。

あまりにネタの範囲が広いので、引用元を協力してまとめるためのサイトまで現れていたり…。

内容自体も、いくらかの作品から影響を受けているだろうという旨の内容はいくらかのサイトで見られる。

 

他に、引用ではない部分を。

しかし、これを読む前に、引用部分を探しながら読むという楽しみ方をしてほしい。

これ以降の内容も、できるだけ深くは書かないようにしている。しかし、それでもうまく隠すことは私にはできないのだ。

 

伊藤計劃自身について。

彼について調べると、彼が命について他人よりもいろいろと考えていたであろうことは容易に想像できる。

(以下、あらすじや、作品を読んだ者へ向けた内容になる。また、個人的な、浅くとも、面白いと思った点について触れる。)

では、そんな人物が描く生命主義の世界とはどのようなものだろうか。

生命主義は幸せなものだろうか。

皆の健康寿命が飛躍的に伸び、彼が苦しんだ病も撲滅された。

さあ、幸せですか?義務ですよ?

 

太る自由、死ぬ自由、不健康でいる自由という、一般的には考えもしないであろう自由が輝いて見える存在も出てくる。

もちろんそれは、"行き過ぎた生命主義"の世界であるが故であろうが、それでも、interestingな議題であることには変わりないだろう。

 

この面白い議題は、幸せとはなにかという、よく考えられる議題のうちの一つであることは明確であるが、現状ではほとんど考えられることはないのだ。

 

なんだか収束に向かう気がしなくなってきた。

ここら辺でやめておこう。

 

これは昨日の時点で書けた話だが、ヒデラジの伊藤計劃の回を4本ダウンロードした。

それと、前に書いたヒデラジの回は間違っていた。

298,299なんかじゃなく、238,239だった。

それと、同じように、他にも出ていた回があったはず…と書いていたが、あれは189,190だった。

 

毎度のこと、最初に書こうと思っていた分を全てかけたわけではなく、途中で忘れてなんとなく不完全燃焼ながら、どうにもならないというこの状況。