メモにあったやつをそのまま

随想というのを書いてみたい。というよりも、自分に合うと思っているのだ。 というのも、私の思考というのはいつもこの文章のように人に聞かせるように行われているのだ。何かを考えるたびに私は自分の中で聞かせる相手を設定し、丁寧に物事を説明しながら、いかに自分の考えが論理的でしっかりとした筋道のもとに成り立っているかを感じるのだ。それにこうでもある。何かを考えている間にすぐに話題が逸れてしまうのだ。つい先程まで手塚治虫について考えていたと思えば、次にはドアノブについて考えている。という具合である。それの面白いのは、話が逸れるときにはいつも現実のものに目移りして逸れるのではなく、思考の紆余曲折によってそこにたどり着くのである。つまり、連想ゲームの如く手塚治虫がドアノブへと大変身を遂げるのだ。

 私の中学の時に聞いたところによれば、随想というものはその時の思いを好きに書いて良いようなのである。つまり、私の移りゆく説明的な思考の捌け口としては丁度良いと考えたのだ。


7/2 1:15:27

 オスプレイというのがある。私はそれを中学の時に知った。というのも、中学の時にニュースで「沖縄米軍基地へのオスプレイ配備に抗議」というような内容の報道を観たからだ。オスプレイというのは、ヘリコプターのように垂直に離陸したあと、空中でローターの角度を変えて零戦の先端に付いているようなプロペラとして利用することで、ヘリコプターよりも速い移動が可能な輸送機というのが私の理解だが、友人の言うにはヘリコプターの操作と飛行機の操作といった2種類の操作を覚えねばならないらしい。故に、操作が困難で事故が多くなり、それに反発する人間が現れるらしい。

 日本人がオスプレイに反発するというのは興味深いことである。というのも、元来日本は国土の狭く起伏が激しいために、省スペースで物事を進めなければいけないという制約が課されているのだから、日本人は滑走路を作らなくて済む垂直離陸機を歓迎すべきなのだ。それに、よく言われるように日本は米軍基地がある故に外国からの攻撃を免れているのだとすれば、オスプレイの墜落など小さなことではないか。

 と、このように書いているうちにどんどんと自分の考えの拙いのを感じてしまった。つまり、非論理的なままに、感情的なままに物事を考えていたと感じでしまったのである。実に面白くない事態である。一番最初にいかに論理的であるかを感じるといったが、論理的でなかった場合がこれである。深い反省を持たねばならない。