今年読んだ本をまとめてみる

特に理由はないけれど、本を買うならなるべく書店に行って買いたいと思っている。

いや、理由はあるかもしれない。

今年は目的の本があって買いに行くことが多かったけれど、基本的には本がないから買いに行こうという流れで行って、タイトルとか表紙だけで決めて買う、所謂パケ買いをするという流れがあるから、そういうことをするためにはどうしてもネットだとやりにくい。

妙に綺麗な棚をずっと見ている気分になる。

並びがあまりに綺麗すぎてランダム性を感じないし、種類分けがされていそうでされていないから、ライトノベル文芸書が一緒に並んでいたりして探している時間の半分程度は無駄になっている気がする。

 

さて、特に理由はないけれど、まとめていこうか。

まとめるというか、並べる(?)。

記憶が曖昧だから微妙に去年読んだ分が入るかもしれない。

どうせあと数日のうちに読むことはないだろうけど、そうなったら追記しておくよ。

・深山の桜(去年から引き継ぎ)

・黒豚姫の神隠

・きみがすべてを忘れる前に

・僕が愛したすべての君へ

・君を愛したひとりの僕へ

トム・ソーヤーの冒険

・宝島

虐殺器官

・ハーモニー

・余命十年

・製造人間は頭が固い

海底二万里(新潮、つまり上下巻)

地底旅行

・一九八四年(読みかけ)

 

購入済み未読本

・怪盗探偵山猫 月下の三猿(発売してすぐに買ったから一年以上放置)

ギリシア神話(ちくま)

・北欧の神話(ちくま)

・うそつき、うそつき

屍者の帝国

The Indifference Engine

・Running Pictures 伊藤計劃映画時評集1

・Cinematrix 伊藤計劃映画時評集2

伊藤計劃記録Ⅰ

伊藤計劃記録Ⅱ

伊藤計劃トリビュート

伊藤計劃トリビュート2

・Genocidal Organ

・Harmony

動物農場(角川版、早川版)

ビチグソ丸

タイトルって思いつかないから空欄でも済むようにしてほしい。

 

特に書くこともないけれど、ふと思い出して書き始めた。

タイトルは書き出す前に、内容をあれこれ考える前に決めたからなんの意味もない。

 

そういえば、僕はタイトルが歌詞に含まれる言葉の曲が嫌いだ。

anazarashiはなんとなく歌詞が好きで聴くけれど、歌詞を聞くのは移動中に考え事しながら聞いてるときにふと歌に思考が移ったときぐらい。

そうではなく、amazarashiはわりかし歌詞に含まれる言葉を曲名に持ってくる。特にサビから持ってくるから一番嫌いなタイプ。

『無題』は歌詞には含まれていない(はず)だし、人間の本性を描いたら嫌われたという旨の歌詞は妙にリアルで、そういう生き物だと思っているし、それは中学からだから、特に中学の時から続く自分の思想のが大好きなナルシストな僕には響く。それに、これは僕があまり本や歌というメディアに多く触れていないかもしれないけれど、他はたいていその部分について触れないから、少数派の意見、特別性のある意見という点で更に掻き立てられる。

 

話は変わって、『一九八四年』を読み出した。新訳版。

虐殺器官』で伊藤計劃オーウェルの言葉を『動物農場』から引用している。

そんなわけで僕はオーウェルを読むことにしたけれど、残念ながら『動物農場』は書店に置いていなかったから、とりあえず買った方からということで。

ヴェルヌ(上下巻)、一つ挟んで、ヴェルヌの後に読んだからか、単純に面白いのか最早わからなくなったけれど、とにかく面白い。

ヴェルヌの、自分の持ちうる限りの知識をふんだんにひけらかすような、僕には少々退屈な文章の後にならなんでも面白くなるのか、今度は『十五少年漂流記』を読んだあとにでも検証してみたい。読むかはわからないけれど。

それに、読んだところで少年向けテイストが強いらしいから他とは違うだろうし。

ヴェルヌをつまらないと感じたのには他にも理由がある。

今回読んだのは『海底二万里』と『地底旅行』で、『海底二万里』は『アトランティス 失われた帝国』や『ふしぎの海のナディア』で、ネモ船長やノーチラス号の名前を借りた、よりダイナミックな描写のある映像を観ていたせいで、『地底旅行』も『センター・オブ・ジ・アース 』でもっと地底での凄いエピソードがあるのだろうと期待してしまっていたせいでもある。

 

しかし、ヴェルヌのせいで翻訳本はつまらないというイメージが付きかけていたという事実は変わらない。

今年からいろいろな翻訳本に手を出すようになって、とりあえず知ってあるタイトルを見つけたら買うぐらいの感じ。

そんな感じで、内容をまともに理解していないくせしてやたらにわくわくしていた小学生以来の『宝島』を読んだり、名前だけで買って、そ「思ってたのと違う!でも面白い!」となった『トム・ソーヤーの冒険』を読んだりしていたのに、ヴェルヌめ…。

 

『一九八四年』と一緒に似たような、監視社会を描いた本を買ったから早く読みたいところ。

そんなことよりも、『屍者の帝国』を買ってしばらく経つのにまだ読んでいないから読まねば…伊藤計劃が書いたところまでは読んだんだぞ。

 

と、こんなにわかな本好きになろうとしている人のダラダラとした内容で今回はお開き。

ガーガギガ。

だーれも興味ない僕の恋愛に関する意見。

 

高校に入ってから、彼女いらないわ。

と、彼女できないやつの言い訳として考えるようになった。

 

少なくとも現状は、いらない。

できたとして、そこからが重要で、何するか。

僕の場合、ない。

何もない。

したいことがない。

することがない。

まるで、仕事に慣れ始めて、波に乗っている世代の如くこう思う。

他人に時間であったり、金銭であったりといったリソースを使うくらいなら、今は自分のために使いたい。自分のことで精一杯だ!

高校生の恋愛なんて9割ぐらいはすぐに破綻するのだろうし、卒業後も長く続いて・・・なんてことは殆ど無いんでしょ。

それは、経験になるかもしれないけれど、正直なところどうでもいい。

身体は、各器官は、脳は、歳を重ねるにつれて衰えていくだろうさ。

精神面というのはそうではないのでは。

要するに、身体はだんだんと動かなくなる。

記憶力も低くなる。新しいことを覚えるなんてことになれば特に。

ただ、誰かに恋をするかどうかというのは年を取ろうがとらまいが関係ないだろうと。

勉強は若いうちにしておかないと、きついものがある。

恋はいつだってできる。いつだって、努力に見合った結果を得られる。

 

それと、女性に対する信用の薄さ。

これは、軽視とかそういった意味でなく。

よく言うように、男性は単純で、女性はもう少し複雑だとして、

そうなれば、いかにして女性の発言の信憑性を高めるかという点に問題が生じる。

単純な男性の発言は聞いたことをそのまま信じれば良い。

そうでない女性はどうする。

別れ際の決まり文句。

「あなたは悪くないの。悪いのはこっちだから。」

・・・若干役割語みたいなものが含まれているからこのセリフは大嫌いだ。

それはともかくとして、大抵の場合、こういう時悪いのは女性の発言とは裏腹に男性側。

しかし、僕は、こういうことをわかっているつもりでも、そのときになれば信じちゃうんだな。単純な男。

というわけで、僕は好きな相手に対して常に疑いの目を持って接しなければいけないことになった。

そんな居心地の悪い環境にいる暇があるなら(少なくとも、今の、時間がないと言っている)僕はもっと別のことに時間を使いたいと思うよ。

 

では、ズバッと言ってくる、いわゆる辛口、毒舌な女性はどうかというと、

僕の心はガラスのハートだから一発で木っ端微塵。おめでとう。

 

性欲がないわけではないけれど、行為をしたいとは思わないし。

デートをしたところで、でっていう感じが強い。

なんかもう、こっから一生女性との関係が一切なく、一生童貞で死んでいっても良いという気持ちで埋まっているというのが現状。

 

中学の時には一人の相手だけに恋愛感情を持っていようとか考えて、三年間突き通していたけれど、結果が酷すぎてもはや黒歴史じゃないか。

こんなやつの恋愛観、誰が興味あr・・・最初に誰も興味ないって書いたじゃないか。

 

なんだこれ。

何故書き始めた。

ああああ

基本的に、"あ"を連続して使うときには4回って決めてるんだ。

ようこそ!ハガキ アニマルの森』というちょっとした作品の中のキャラクター名が由来(?)。

だいぶきったないキャラクター。

まあ、あの漫画においてきれいなキャラクターが存在するのかというと・・・。

今回は別に書くこともないけれど、無理矢理に書いてみてる。内容は(とても)少なくなる。

 

虐殺器官』、『ハーモニー』の英語版が届いた。

まずは『虐殺器官』から翻訳を始めているわけだけれども、個人的には翻訳よりもボキャブラリーを増やすことが主な目的だから、たまに原文を読んで翻訳のヒントを得たり。

 

原文で思い出したけれど、『海底二万里』を読んでいたら、"原文ママ"と出てきた。

いや、存在は知っていたけれど、実際に使われているとは思っていなかった。

ネット上のスラング的な感じだと思っていた。

 

ヒデラジの全ての回をダウンロードしたよ。

KONAMIがまだあのサイトを残しているというのが不思議なんだけど・・・。サーバーだって金食うだろうに。

ダウンロードには3日掛けた。

一日目は100くらい。

二日目は70くらい。

三日目は残り全部。

合計で330個くらい。

画像ファイルほどではないにしろ、音声ファイルだし容量小さいだろうと侮っていたらしっかり5GBくらい持ってかれた。

 

巡集なんかを使って伊藤計劃はてなブログをほぼ完全な状態でオフラインストレージに残そうかなんて考え始めた。

ダウンロードしようとして、やめてを数回やった。

と、書いている間にもホームページクローン作成というソフトを使ってダウンロードしている。

巡集でダウンロードしきったやつは見た目が全然違かったから。

 

英語のボキャブラリーを増やすのは良いのだけれど、中国語はどうした。と、自問。

君は今、中国語でどんなことが言えるんだい。と、自問。

にーじゃおしぇんまーじぇんずー。と、自答。

 

とりあえず、時間がほしい。

学生でいる時間。

働かなくても許されて、ある程度勉強していればあとは好き勝手やっていられる時間。

動画作って、小説書いて、ツール作って、Mod作って、ゲーム作って、伊藤計劃拾い集めて、本読んで、ゲームやって、英語勉強して、中国語勉強して、スペイン語勉強して、ポルトガル語勉強して、夢探して。(スペイン語ポルトガル語は今やってないけど・・・)

そんなことをやっていられる時間。

 

これでも色々捨てていったんだ。

海外留学なんてバカげた夢の端っこを指二本で摘んでいたこともあったけれど、捨てたし、

サバゲーだって興味持っていたのにいつの間にか離れていたし、

もはや海外旅行とかだって興味が薄れてきている。

 

薄幸。

 

昔から夢が見当たらないから、とりあえず目の前に現れたでっかい塔目指して歩いているだけで、実際その塔に行きたいのかもわからない。

Q.どうして〇〇になろうと思ったんですか。

A.しばらく見ているうちに自分もやってみたいと思って。

よくある理由なんだけどさ、意味がわからないね。

何故やりたいと思った?→やりたいと思ったから。

 

よくわからなくなった。

『ハーモニー』について…感想…というか、初期の感想

前回の予告通り、今回は『ハーモニー』について。

と言っても、前回の内容は非公開にしたけれど。

こんなに最初のどうでもいい話の内容が思い浮かばないのは初めてだな。

 

僕が『ハーモニー』を知ったのは前に書いたとおり、アニメーション版を観たから。

その時の感想は、

「何だこれ、何が言いたいんだ。」

これに限る。

これの…この感想の凄さというのは、もう少し説明しなければ伝わらない。

ということで、少しの説明を。

僕は、小説を読むとき、映画を観るとき、

「作り手は何を伝えたいんだろう。」

なんて不毛なことは考えない。

考えないようにしているし、先程不毛といったように、そんなことは全くもって無駄な行為であり…言葉を忘れた。

要するに、そんなことをする必要は全くないと考えているわけだ。

が、しかし、『ハーモニー』を観たあとどう思った?

前言撤回して、もう一つの感想を加えよう。

「そんな簡単なことを伝えたいわけじゃないはずだ。」

こんな感想まで抱いていた。

すでに、無意識のうちに、"作り手の意図"を探していたのだ。

これで、『ハーモニー』が僕にとっていかに異端で、すごい作品であるかが分かるだろう。

 

自分の意に反して、"作り手の意図"を探らせたこの作品は、この作品について、伊藤計劃について調べると、より、圧倒的に面白くなる。

しかし、これから先はできることならば、これから読んでみようという人には読んでは欲しくない。

これ以降の内容は当たり前に、できるだけネタバレを避けている。

しかし、それでも、"伊藤計劃という人物について知らない者が読む『ハーモニー』"と"伊藤計劃についてある程度知った上で読む『ハーモニー』"という差が楽しめるのは、伊藤計劃を知らない状態で読んだものに限られるという事実から、避けてほしいと思う。

深みが増すのだ。

僕の感じた、底知れぬ深みに、更に深みが増すのだ。

底知れぬ深みを知らぬ者にとって、その更なる深みに対する恐怖心というものは酷くちんけなものとなってしまうのだ。

…少し言葉を間違えているが、まあいい。

もう少しで一度立ち止まってほしい領域に入るという部分の前にはもう一度警告をする。ぜひ、慎重に読み進めてほしい。

 

それでは、簡単に説明しよう。

伊藤計劃は所謂geekで、映画や小説、アニメ、ゲームに精通していた。

その結果、『虐殺器官』と『ハーモニー』には様々な作品からの引用が見られるようになった。

この間、ビブリオバトルで『ハーモニー』を紹介している動画を観たが、そこでも言っていたものを一つ例に挙げよう。

『ただの人間には興味がないの』

これはあくまでも、『ハーモニー』からの引用だ。

しかし、このセリフを知っている人もいることだろう。

こういった引用が随所に隠れている。

あまりにネタの範囲が広いので、引用元を協力してまとめるためのサイトまで現れていたり…。

内容自体も、いくらかの作品から影響を受けているだろうという旨の内容はいくらかのサイトで見られる。

 

他に、引用ではない部分を。

しかし、これを読む前に、引用部分を探しながら読むという楽しみ方をしてほしい。

これ以降の内容も、できるだけ深くは書かないようにしている。しかし、それでもうまく隠すことは私にはできないのだ。

 

伊藤計劃自身について。

彼について調べると、彼が命について他人よりもいろいろと考えていたであろうことは容易に想像できる。

(以下、あらすじや、作品を読んだ者へ向けた内容になる。また、個人的な、浅くとも、面白いと思った点について触れる。)

では、そんな人物が描く生命主義の世界とはどのようなものだろうか。

生命主義は幸せなものだろうか。

皆の健康寿命が飛躍的に伸び、彼が苦しんだ病も撲滅された。

さあ、幸せですか?義務ですよ?

 

太る自由、死ぬ自由、不健康でいる自由という、一般的には考えもしないであろう自由が輝いて見える存在も出てくる。

もちろんそれは、"行き過ぎた生命主義"の世界であるが故であろうが、それでも、interestingな議題であることには変わりないだろう。

 

この面白い議題は、幸せとはなにかという、よく考えられる議題のうちの一つであることは明確であるが、現状ではほとんど考えられることはないのだ。

 

なんだか収束に向かう気がしなくなってきた。

ここら辺でやめておこう。

 

これは昨日の時点で書けた話だが、ヒデラジの伊藤計劃の回を4本ダウンロードした。

それと、前に書いたヒデラジの回は間違っていた。

298,299なんかじゃなく、238,239だった。

それと、同じように、他にも出ていた回があったはず…と書いていたが、あれは189,190だった。

 

毎度のこと、最初に書こうと思っていた分を全てかけたわけではなく、途中で忘れてなんとなく不完全燃焼ながら、どうにもならないというこの状況。

中学時代の自分について。

久しぶりにPCの方で書こうとしたら前とは大きくUIが変わっているじゃないか。

どちらのほうが書きやすいかは置いておいて。

 

文字をでかくしたりすることも億劫だから今回は雑になるな。

そもそも、これを読んでいる人なんていないと踏んでいるのだから、読みやすさなんて気にする意味が無いのだ。それでもこだわっていた今までの自分がおかしいのだ。

 

さて、タイトル通りの内容に移ろう。

まだそれほど時が経っていない出来事について書くという羞恥・・・。

中学時代の自分というのは、完全に今の自分の基礎を作り上げたものであり、個人的には非常に重要な存在であったと考えているが、人間関係に関して言えば最悪だったと考える。

 

入学当時、僕は気づいたのだ。

自分がいかに狭いコミュニティの中にいて、かつそこに縋っていたのか。

 

小学校卒業と時を同じくして離れていった存在は大きかった。

僕は、小4からだろうか・・・小5からだろうか・・・そんな2,3年の付き合いであった彼と、その周りのコミュニティの中でのみ息をしていたことをはっきりと自覚した。

彼のコミュニティに入る以前にも2,3のグループの中で生きていたが、仲が良かったのはほとんどリーダー的存在の人物のみであり、その周りを取り囲む人物との関係というものは非常に浅かったと思う。

それに加え、最後のコミュニティに入ってからは殆どそれらのグループの人物との関わりがなかった。

小学校時代最後のコミュニティはもう少し広く関係を築けていた・・・と思う。

 

しかし、中学に入ったらどうだろうか、彼はいない。

コミュニティのメンバーは周りに溶け込んでいく。

独り沈殿している存在は居場所を失ったのだ。少なくともそう感じていたのだ。

 

彼は、リーダーとなることを嫌ったが・・・嫌がったが、実質的にはリーダーだったのだよ。

(他をグループとし、彼の周りだけコミュニティとしていることはそこに由来する。)

 

さて、沈殿物はどうしたか。

当たり前に誰もかき混ぜようとはしない。

溶け込むには、自ら溶け込むよう努力をしなければいけないのだ。

沈殿物は、そうしなかった。

沈殿物は、周りの溶質たちを観察し続けた。

沈殿物は、観察を、あくまでも喜々として行っているのだと自分に言い聞かせて、観察し続けた。

その結果、沈殿物の中で、溶質というもの・・・沈殿物を含めた溶質となりうる存在について、あれこれと性質が導き出され、それらの存在がどのようなものなのか固まってしまったのだ。

 

自分の居場所をなくした(と言うより、元々無かった)と感じたのは学校内だけではなかった。

家庭内においても同様である。

いつの間にか家族に対する接し方もわからなくなり、親とのコミュニケーションも取れなくなっていたのだ。

小学校時代はべらべら喋っていたのに中学に入ってから全く話さなくなったと何度言われたことだろう。

これに関しては、中学時代最大の失態と言えよう。

 

さて、そんな自称おませは中1の中盤あたりで国語が大好きになる。

国語教師の

「どうせ教科書やノートを家宝にするなんて人はいないだろう。だったら、バンバン書き込め。自分の分かりやすいようにノートを書け。」

という旨の発言に影響されて、国語のみ、ノートを自己流に書き込んだ。

教師の提示する課題に対して、

最低でも3つは根拠となる文を写し、更にその文のどの部分が根拠となっているのか、矢印で線を引っ張って、考えへと持っていった。

そんな書き方をしていたら、教師がノートを見て僕に発表を促すのだ。

発表の大嫌いな僕も、「これは褒められているのだ。」と内心上機嫌で発表をする。

そんな授業を何度も続けた。その間、僕が授業中に手を挙げたことはなかったが、毎時間発表させられていた。が、決して嫌ではなかった。

褒められるのだ。嫌ではない。むしろ、小学校時代は大嫌いだったはずの教科は最も好きな教科へと変わっていたのだ。

おませも単純なものである。

 

そんな、僕が最も尊敬する教師がある日、授業が始まる前に黒板が汚いことを指摘し、指導を始めた。

彼女の主張を簡単に纏めれば(纏まっているかわからないが)こうである。

「授業後には分からなかったところを質問しに来る人もいる。黒板はそんな授業に前向きな人物の意見を書く場でもある。そんなに熱心な人の意見を、このような汚い黒板に書くことは、嘆かわしいことである。よって、黒板はきれいな状態であってほしい。」

嘆かわしいという言葉の意味を理解しきれていない部分があるが、言葉が出てこなかった。すまない。

周りの反応はというと、「何故怒られなければいけないのだ。」といったものであった。

これは、もともと、彼女が多く宿題を出す人物であり、そういった面から嫌われていたということと、相手が思春期の人物であったからだろう。

僕はそれらを理解した上で、我が師に同情し、泣いた。

授業中に、静まり返った教室の中で(声は出さなかったが)しっかりと泣き、心配した師に連れられその場を離れて保健室へ。

泣いた理由は説明しなかった。

 

僕は嫌いな教師というものが少ない。と思う。

それは、教師は教師らしくあるべきだと考えていることによる。

教師らしさとは何かという点については、僕の中でもしっかりと纏まっているわけではないが、少なくとも、宿題を多く出す教師は、教師らしい教師なのだ。

その行為は、その教師の考えた最善の教育法であり、否定すべきではないと考える。

むしろ、しっかりと自分の考えた教育法に則って行動している、生徒のことを考えている教育者なのだと考える。

だから僕は、そういった教師はむしろ好きだ。

逆に、宿題が少ない教師であっても、恐らくそれはその教師の導き出した教育法であり、否定すべきものではないと考える。好きだ。

しかし、そういった考えを持たない人物が、宿題を多く出す教師を嫌おうが、その教師に対する愚痴を言おうが、気にしない。

人にはそれぞれの価値観があり、その価値観はあくまでも、押し付け、強要すべきものではないのだ。

という僕の中での三大原則を作るのであれば確実に入ってくる原則に基づいてね。

 

話が大きくずれた。

もう少しで中学校三年間の自分について語り終わる。

彼女の話は一年までである。

二年になってからは彼女はいないからね。

 

二、三年時の国語の教師は同じ教師だった。

あ、僕に影響を与える教師は、少なくとも中学の間は国語教師だけなのだ。

最初の反応を見るに、その教師は、我が尊敬する師から話を聞いていたのだろう。

僕のノートを見て、手を挙げていない僕に発表させるという行為を(恐らく)毎時間行った。

そんなことを続けているうちに彼女の中で、僕はませているというイメージが付いたのか、人生相談をされた。

正直、他の・・・例えば女子なんかにも同じことを相談していそうだけれども。

しかし、そんなことはどうでもいい。

彼女こそが、僕にとっての教師らしくない教師だったのである。

人間としては非常に面白い人物(funnyではない。interestingだ。)ではあったが、教師としては大嫌いだった。

・自分は(例を上げた上で)このように努力しているのだから授業が円滑に進むように協力してほしい。という旨の発言が度々。

・僕に人生相談を持ちかけた。

これだけで、僕にとって嫌いな教師になったのだ。

全く素晴らしい教師である。

 

書くことがなくなった。

本当はもう少し何か書くつもりでいたはずなのだけれど、幾度もの話題の逸れであったり、一時間以上にも及ぶ書き込みによってこんがらがってわからなくなってしまった。

 

本当は、今日の話題はまた伊藤計劃のはずだったのだけれど・・・。

まあいい、22時半ごろに書き込み始め、当初は普通に読まれる可能性に怯えていたけれど、やたらと長くなったおかげでいつもとそれほど変わらない時間になった。

 

ちなみに、僕のPCは、Google日本語入力は、"い"と打つだけで予測変換に伊藤計劃が出るようになった。

それと、GboardとGoogle日本語入力を使っていて最近思ったのが、変換クソすぎん?

あまり長い文を一気に変換すると変な変換のせいですごいことになる。

変な変換・・・。

 

次回は『ハーモニー』についてだ。

僕が伊藤計劃に酔った要因、アニメーション版『ハーモニー』。

タイトルは何だろうね

お久しぶりで。

始まりの、たった1行でも脱字だと思われるのではないかと心配になってしまう。

別に言葉に強いわけではないのだけれど、せめて書くときくらいは正しい日本語というものを選びたいという一種のこだわりに、Twitterなんかでも首を絞められているわけだ。

 

また

伊藤計劃の『虐殺器官』と『ハーモニー』の英語版を…洋書版を買って、届くのは2,3日後を予定されている。
伝えきれないことが怖いから補足すると、2冊の洋書版を買ったという意味。
"AとBのCを"という言い回しは割と僕を苦しめてくる。

 

Amazonで購入してから一週間以上待っていて、僕は待ちきれずに、特にここ2,3日は伊藤計劃関連のことを再び調べている。

 

Amazonを挟まずにBook Depositoryから直接買ったほうがいくらか安いと気づいたのは購入から数時間後のことで、当たり前に発送も始まってはいなかったのだけれど、取り消すのが億劫で高いまま買ってしまった。

 

調べているという話題に戻ると、

ヒデラジの伊藤計劃氏に関する回だけ聴いた。

298と299だったかな。他にもあるはずだけれど、どれだかわからないから調べもしていない。

その後、流れでコジステを観たりもしたけれど…。

 

要するに、この気持ち悪いストーカー気質のある人間は、9冊の伊藤計劃本を買うだけでなく、彼のブログを全ページ(将来性を考えて)3つのファイル形式で保存した上に、英語化されたバージョンまで買ったのである。

さらに言えば、ブログだけでなく、いくらかのネット上に転がっている伊藤計劃関連の情報をちょこちょこと保存している。

 

自分の行動とはいえ、客観的に見ると気持ち悪すぎる。

………ということはずっと前から知っている。のにもかかわらず、やめないのだよ、こいつは。

 

今回は、スマホ版のはてなブログで書いてみたけれど、書きやすかった。

打っているという感覚があまりにも小さいことと、PC版だとどのように表示されるのかをあまり考えずに書くことになるという点を除けば、かなり良い気がする。。。

 

この、"。。。"とは何なのか。

いや、"…"これだろう。

意味はわかっている。

けれど、なぜそれを使うようになったのかな。

かな入力のままピリオドを打とうとしたとか?

阿呆。

 

最後の最後に、入力したはずが表示されず、その部分は入力し直したけれど、どこかにカーソルが行っていた可能性を十分に疑いながらも確認を面倒臭がったため、変な文になっている部分がある可能性があることを謝罪して終わる。

とか保険をかけておいたのに、結局他の部分も含めて確認のために読みやがったよこいつは。

なんとか続いているよ(2日目だけど

やあ、どうもどうも。

 

昨日のを読み返してみたら始まりが唐突だったなと。

それと、編集を加えて幾つか言葉を直したけれど、まだ納得いっていない。

おしかったね

昨日書いたとおり、伊藤計劃はてなブログに行ったんだけれど、そのときに2004/4から2009/1までの各ページをhtmファイルとmhtmlファイルとして保存してきた。

更にそのときに気づいたんだけれど、彼がはてなブログを始めたのは2004/4/19だったんだよね。

惜しかったね。

ちなみに、『ハーモニー』が発売されたのが2008/12/18で、年こそ違えど僕の誕生日だった。

運命。

 

もう一つ

今日『虐殺器官』の映画について調べてみた。

調べる前から薄々わかってはいたけれど、残念だね。

いつも僕は動き始めるのが遅すぎるんだ。

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懐かしいな。数年後には消えているのかな。

やあ、どうもどうも。

ちょうど1年くらい前に『ハーモニー』の映画版を観て伊藤計劃に酔ってしまった。

『ハーモニー』を観る事になったのは偶然で、その日の一月程前に映画を観に行くって話になって上映中の映画一覧を見ていたら、気になるアニメーション作品があった。

ただ、それが『ハーモニー』だったというわけではなく、その作品のタイトルは未だに判明していないけれど、音楽に関係する単語だったのを覚えている。

結局その時は別の作品を観に行ったんだけれど、気になったんでその一月後ぐらいに思い浮かぶ音楽に関連した単語で映画を探した。

最初に検索したのは"セッション"まあ、別の作品が出るよね。実写の。

で、その次が『ハーモニー』だった。その時点で違う作品だとわかってはいたけれど観てみたわけだ。

で、酔った。

 

酔った僕は1週間ほど前にようやく伊藤計劃関連の本を9冊買った。もはや狂気だと思う(まだ買えていない本がいくつかあるからまだ買いたいと思ってる)。

そして今日、伊藤計劃にもっと浸ろうということではてなにやってきた。

 

あれは多分5,6年前だけれど、僕はブログを始めたいという突発的な衝動ではてなに登録してブログを開設した(1度も更新していない)。

で、そんなのが懐かしくなって久しぶりにログインしてみたんだけど、メインの垢は所謂ネチケットというものをあまり知らなかったようで、(主にはてなIDが)酷かったからとりあえずサブ垢を作ってこうして書いてみた。

サブ垢にしたのはメインを消すのは思い出を消すようで嫌だったから。

 

まあ、気が向いたらこれからも更新してみようかなって。

もしかしたら明日明後日あたりも更新するかもしれないけれどわからない。

今、割と書いてて楽しかったので。

まあ、どうせこれを読む人なんて僕のツイッターから飛んでくる人くらいだけどね。

こういう、そのときに読んでいる人にしか意味のない文を恒久的に残る場所に記するのはあまり気が進まないんだけどな…。

 

あけおめ

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