知識をひけらかす事を何と言ったかな

青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない』を観始めた。現在3話まで世に出ている。

というわけで今のところ3クールぶりぐらいに僕が観たアニメは3話まで。

『Running Pictures』を読んでいるうちに観測理論を説明に使うようなストーリーのアイデアを思いついていて、『青春ブタ野郎』で観測理論がどうとかというものだから大好き。

単純にセリフ回しと世界観が好きでもあるけれど。原作買おうかな。

 

この作品って「思春期症候群」とか「観測理論」とか、世界観の説明とか単純にわかりにくい物事の説明とかを説明口調でしっかり説明するから、人によっては好きじゃないかもしれない。

僕も説明口調なセリフをさも当たり前のように敵に喋らせたり、サポート役の味方に喋らせたりしているのは好きじゃないけれど、前述のようにもはや好きなことは確定しているので痘痕も靨です。

痘痕も靨を前回に続いて使っているのは最近知った素敵な言葉なので、できるだけ早く覚えようとしているからです。そのうち口癖みたいな僕の良くいう単語になるかもしれません。

 

言い回しの嫌いな作品といえば『君を愛したひとりの僕へ』と『僕が愛したすべての君へ』がある。

この作品はどうにも好きになれない。

今思えばこれも説明口調だった気がするけれど、理由はそれだけじゃないと思う。

前に、なぜ嫌いなのか考えたけれど答えは出なかった。

2ちゃんの物語みたいに短い文を何度も何度も書いているのが嫌なのかもと考えたけれど、そもそも僕は2ちゃんの感動系物語大好きだから違う。

僕は役割語も嫌いだけど役割語を多用するほど登場人物はいなかったと思うし違う。

ブックカバー欲しさにまんまと踊らされて買った『レオナルドの扉』という作品は役割語満載な上に説明口調で最悪だった。

主人公がレオナルド・ダ・ヴィンチの末裔なのはまだしも、そうでなくてもいいのに無駄にミケランジェロの末裔とか出てきてストーリーも大して面白くなかった。

例えドラえもんの映画に関わった人間だろうが何だろうがあれは好きじゃない。

 

『階段島』シリーズも言い回しが好きなシリーズ。

まあ、ぼーっと読んでて途中で「何言ってるか全然わからん」って読み返すんだけど。

あのシリーズのナドのキャラクター性も好き。

現実の彼は好きじゃないけどね。

 

と、こんな感じで僕の好きな、嫌いな作品の特徴でござった。(また途中で書くことに困ったとかそういうのじゃないんだからねっ!)

そういえば栄光の架橋の歌詞をちゃんと読んだことがない

今回は本題へダイレクトに。

と思ったけどちょっと寄り道を。

最近、漢字を作ったり読み仮名追加したりしたいなという思考がちょこちょこ出てきていて。

「慣」っていう字を「こころつらぬ(く)」って読みたいなと思った。

それだけ。

 

さて、話を本題へ。レッツゴー!

「僕は何が好きか」(イェーイ

好きな漢字は「志」。

侍に下心で志っていう洒落の効いた感じが好き。

菓子ならチョコ、グミ、チューイングキャンディ。

ボンタンアメが好きだな。小さい頃によく食べた。オブラートが珍しくて気に入ってた。

オブラートもなかなか良いかもしれない。

小学生の時には友人がオブラートを使って薬飲んでるの見て羨ましく思ってたけど、今まで使ったことはない。

 

『ハーモニー』から伊藤計劃を好きになったみたいなことを書いた時に書いていた内容もそうだと思うけれど、僕は論理的な理由から物事を好きになるということがほとんどない。

ゴジラが好きな人がいて、その人がゴジラを好きな理由は「ゴジラのこんな所がカッコいいから」だとしよう。

僕は?「ゴジラってなんかいいじゃん」こんなんだよ。

 

理由らしいものがあっても変な理由なことが多い。

僕は『イヴの時間』が好きなんだけど、なんで好きかってそれは、作中のテレビCMでロボットアームがトマトを潰してその中からボルトだのなんだのって機械パーツが出てきたあと、ロボットが作ったものを食べるのか?っていうような文字が出るCMがあって、それが好きなんだよ。

作品の内容とほとんど関係ない。

関係を説明すれば、あの作品はヒトにソックリな人型ロボットが微妙に普及しているけれど、あくまで扱い方は物っていう状態の世界観の中で、ロボットへの疑心みたいなものを世間的に抱えてることを表す象徴的なものがそのCM。

CM自体のトマトからパーツっていう演出が好きだし、後になって考えてみれば世界観の表現のための歯車を見られたっていうのが好きな理由なのかもしれない。

 

鑑定士と顔のない依頼人』が好きな理由も変な理由を含んでいる。

この作品では主人公の鑑定士が、顔も見せず姿も見せないでただ鑑定を依頼してああだこうだと命令してくる依頼人に恋心を抱く。

依頼人は情緒が不安定に見えるように描かれている。

ある日、依頼人は主人公に向かって怒鳴り散らす。

主人公も怒鳴られて激怒。「もうあなたに依頼された仕事なんてやらないんだから!」

プンプンしたままの主人公に依頼人から「あの時はごめん。私が悪かった。」で、仲直り。

こんなのが何回か続く。

この構図がDV加害者と被害者の構図と似ていて、どうにもそのことが好きで堪らない。

この作品はそれ以外に結末も好き。

 

映画の結末は『鑑定士と顔のない依頼人』と同じようなものが好き。

ってネタバレを防ぐための言い方をしているけれど、ああいうどんでん返し的なのが好きとかそういうわけじゃないよ。解ってくれよ。

どんでん返しって言っちゃったよ。

でもまあ、予告とかでもそういう予告してる作品あるしいいよね。この作品はどうか知らないけど。

 

好きな漫画、アニメは『少女終末旅行』、『四月は君の嘘』。

少女終末旅行』は、1話のチトがユーリに銃を向けてからのレーションパクっ!「あ、お前本当に……」のシーンで大好きになった。

マリオの1-1ですよあれは。

後はもう痘痕も靨ですよ。

因みに僕、「痘痕も靨」ってことわざ好きです。

読みづらいのもあるし、こいつの意味、逆でもそうだけど正にその通りだと。

ただその通りだと思ってるだけじゃなくて、僕が中学の時に感じた「人間ってこうだよな」の内容のひとつがこれだったんで、それを古人がことわざとして作ってたことが素晴らしく嬉しくて好き。

amazarashiの曲は歌詞が好きなんだけど中でも『無題』の歌詞では、人気が出て調子に乗った芸術家がさらなる高みを目指そうとして「人間の本性を描いたらみんな離れていった」っていう感じの歌詞があって、僕は性悪説派なのでこういうことを中学の時に考えたりしてたからっていう同じような理由で好き。

 

四月は君の嘘』はそもそもジャンルとして好き。

「余命もの」って言うのかな。そう言うのが狂おしいほど好きなのですよ。『ゲーセンで出会った不思議な女の子の話』を読んでそれに気づいたんだけど、特にあれは最高ですよね。

まず相手が良いキャラしてるよね。流石は妄想の中の女の子だ。突拍子のないアイデアを出してくるのとか良い。

イエスマン “YES”は人生のパスワード』でYESって言い続けてその場の流れで旅行してるのとかも超好き。

主人公の地元行った時に2人で歌ってるのとか最高。

しょうもない会話最高。

最高。

「余命もの」が好きなんで、七月隆文の一般文芸作品は全部読んでますよ。

初めて彼の作品を知った時は『庶民サンプル』のアニメを観ている時ぐらいで、作者同じって知った時は笑っちまいましたよ。

『ケーキ王子の名推理』シリーズ以外は「余命もの」に近い設定で素晴らしいですぜ。惰性で『ケーキ王子』も買ってるけどそれほど興味はない。ほとんどラノベ的な登場人物たちで繰り広げられる少しの推理とたっぷりのスイーツwith薄っすら積もっていく恋愛要素なんで。

「余命もの」という濃厚な恋愛を希う僕にはあまり。

 

好きな作家は伊藤計劃……だけどこれ以上はいいか。

 

好きな小説は『宝島』かな。好きな作家の作品なんて言うまでもないし。

小学生の時に図書室で特に理解もしていなかったのに何度も読んでそのたびにわくわくして。

高校生になって読んでみてもやっぱり同じように興奮して。

素晴らしいですぜあの本は。

 

自分がどういうものが好きなのか知ろうと思って書いたけれど、結論としては

・自分に酔い痴れられるもの

・考えさせられるもの

・妄想をかきたてられるもの

なのかな?

 

スチームパンクってカッコいいよね

最近、早川の『Running Pictures』を読んでいて映画評論を読む人になった。

まあ、伊藤計劃なんで僕にとっては読むしかない読み物なのですが。

映画はあまり知らないけどいつも通り僕は映画についても浅はかな知識をもとに偉ぶる。

今回の内容もそれに近いけど、それは後で話に戻ろう。

2冊セットみたいなもので1冊目は『Running Pictures』2冊目が『Cinematrix』。

両方とも彼のブログ内の映画評論をまとめた内容で、1冊目は98~00年の作品ずらり。

 

アルマゲドン』は去年授業中に丸々見せられるまでは、聞いたことあるから「有名なんだろう」ぐらいの作品。で、見せられてからは「うん、みたよ」って感じ。

少なくとも有名だってイメージはあるから伊藤計劃がコテンパンに酷評してるのが本当に面白い。

「この映画のストーリーは酷い。けどまあ、アルマゲドンの方が酷いから安心して。」ってこんなんが頻出する。

いや、酷い映画どんだけ紹介してるんだよ。っていうのもひとつ面白いところ。

でもWikipediaを見ると、興行的にはうまくいったけどゴールデンラズベリー賞(最低の映画を表彰する賞)貰うような映画って書いてあるから、別に彼の評価は間違っていないらしい。

そうなると困るのが、僕らにこの映画を見せてきて軽く感想を書かせて鼻高々にしていた学年主任を僕はどう見ればいいのかっていうところだけれど……。

 

まあそれ以外にも伊藤計劃の考え方とか実は作品の内容はこの頃から持ってたんじゃないかって考えるようなこと言ってたりとか伊藤計劃好きには面白いところは色々とあると思う。

 

そういえば、『少女終末旅行』のアンソロジーを「これを読んでしまったら(つくみずさんが書いた話じゃないけど)最後の物語が終わってしまう」ってずっと読まずにいるんだけれど、『伊藤計劃』についてもトリビュートが同じ扱いになるのではと危惧している。若くはブログになるやもしれない。

 

 

 

で、ここからが今回のお話です。

(デデンッ!

「ファンタジーは子供向けか否か」(イェーイ、ドンドンパフパフ

いや、初っ端から感じてたけど久しぶりで文体忘れてるよね。テンション忘れてるよね。

 

宮崎駿は言いました。

「大人なんてどうでもいい、子供が観て、大人はおまけで付いてきて観ればいい。」

まあ、全く言っていたことそのまま というわけではありませんが。

これはファンタジーに対する意見じゃなくて彼の作品に対する、彼の作品を観る客に対する意見だけど、他人が彼に求めるのって結局ファンタジーじゃないですか。

ポニョか何かのメイキングで、彼はカリオストロとか昔はカーアクションを魅せる技術が凄かったのに、ポニョのカーアクションを観た人間から落ちたと評価されたって(ナレーションが)言ってるんですよ。

おい待て、ここからどう広げるか忘れちゃったよ……。

 

えっと、まあ、とりあえず、ファンタジーは子供向けだって評価してる人間は一定数いるだろうと思うんですよ。

でも、実際のところファンタジーって結構大人向けなんじゃないかって思った っていう話をしようって1週間ぐらい前に思ったのに時間が経ったせいでどういうプロセスでそう思ったのか忘れたから、今回の主題は伊藤計劃っていいよねって事で終わらせて、思い出したら伊藤計劃伊藤計劃言いながら改めて書こうかと。では。

隣の芝生は青々として妖艶である

最近は聞かないけれど、中学の時には一時期ラジオにハマっていた。

普通のFMラジオもそうだし、アニメの宣伝用にやってるインターネットラジオも。

ラジオではリスナーからの質問なんかを受け付けることが定番だし、ラジオといえば……というようなイメージの一つかもしれない。

そういった質問は恐らく、いろいろな面を考慮しながら選りすぐりの1枚が読まれるのだろうけれど、あの質問の文はなかなかに良くできていることが多くて感心する。

例えば先述したようなインターネットラジオだと、そのアニメのキャラクターのイメージから、「〜といえば…ですが……皆さんはどうですか。」と質問に至るまでの流れがしっかりしているのだ。

きっと読書感想文なんかも得意なはずだよ。

 

さて、ラジオの質問は流れがしっかりしていても、このブログはそうじゃない。

ここからはラジオとは関係のない話。だけど、こっちが本題。

 

ミッドナイト・イン・パリ』を観た。

正直言って、僕は好きじゃない作品だったけれど、ちょっと思ったことがあった。

この作品は、1920年代に憧れる主人公がタイムスリップして実際にその年代の有名な人物とあったり元の時代に戻ったりを繰り返していく物語なのだが、

作中で1920年代の女性に主人公が「こんな時代よりももっと昔の方が素敵だ」という旨の話をされたり、その女性が良いと言っている時代の人間(女性と一緒にタイムスリップした)から「(女性の良いと言っている)この時代よりも前のほうが良い」と言われるシーンが出てくる。

 

隣の芝生は青く見えるという言葉があるし、僕もよくそれを実感する。

自分の生きる時代においても同じように。

アニメ、映画、本、ゲーム…といろいろとハマっていくと最終的によく思うのが、「もっと早く生まれていれば」ということ。

もっと早く生まれていればリアルタイムでしか感じられないようなその作品の凄さを感じられたし、それを作った人が生きている時代に生きられるだけでも嬉しいし、他にも喜びはいろいろ得られる。

 

でも、今回書きたいのはそういうことじゃない。昔は良いなじゃない。

 

隣の芝生は青く見えるが、見えない芝生は青く見ようもないという話だ。

当たり前の話なのだが、当たり前を発見したことを喜ばずにいられないのが僕だ。

0を文字として発見したインド人はすごいし、重力を発見したニュートンもすごいし、アルキメデスもすごいし、アリストテレスもすごいし、ダヴィンチもすごい……。

兎にも角にもどういう話かといえば、自分の生まれた年だとか、生きている年だとかにおいて、隣の芝生は過去にしかなくて未来にはない。東にはあっても西にはないってことに気づいたって話だ。

 

僕は伊藤計劃が好きだしそうでなくたってSFは好きだ。

でも、未来の世界に対して「未来は良いよな…」なんてことは思ったことはない。

でも、「昔は良いよな…」っていうのだったら何度もある。

未来に芝生はないけど、過去には生い茂ってるんだよ。

 

結論を書いたら急に書く気がなくなった。

気づいたんだけど僕は書くこと(結論)を思いついてから、過程をああしようこうしようと想像を膨らませるのに、結論の片付け方っていうのをまるで考えないんだな。いつも。

 

僕はこう思ったんですけど、皆さんはどう思いますか?

僕はこんなんですけど皆さんはどうですか?

なんてラジオの質問みたいなオチでさようなら。

メイドニツイテ

死後の世界という言い方ではどうも格好が悪いので、冥土という言い方をしようとするのだけれど、どうも仏教的すぎる気もする。

 

死後の世界というのはおそらく誰もが想像したことのあるものなのに、宗教とか各種メディアとかのせいかどれも似たり寄ったりで陳腐に見える。

 

僕も以前、少しだけ考えた。

今日はそれについて。

 

考えるにあたって、まず最初に決めておかなければいけないことがある。

すなわち、神(創造主)の存在を認めるか否かである。

神がいないのであれば、超自然的な場でありながら、自然に基づいた環境でなければならない。

要するに生前、善人であったか悪人であったかという ふるいのかけ方ではいけないし、なんなら、1つの世界でも良い。

一方、神がいる場合、恐らくだがふるいにかけるのだろう。

僕は無神論者だし、各種神話及び神についての知識も大して持っていない。

だが、鶏が先か卵が先か、神はヒトが作り出すものなのだから、ヒトに似るはずだ。絵を描いたりすると自然とどこかその絵かきに似るというように。

 

僕は神がいるという前提で考えた。

しかし、ここで先程と意見が少し変わる。

神がふるいにかけるとして、そのふるいが人間社会の中にあるものと同じとは限らないではないか。

神は神。ヒトはヒト。それぞれに異なる価値観があるはずだ。

なぜなら、ヒトに似ては面白くないからだ。

そもそも、無神論者が神がいるという前提で考えているのだからこんな破綻は大したことじゃない。

 

先程からGboardの変換は"かみ"と打つと一番に"髪"と出してきて面倒くさい。

 

さて、ここで以前私が考えた冥土がおかしくなる。

どういった経緯でそうなったかは覚えていないが、「ふるいが違うからみんな天国行きだな」と考えた。

この話最大の疑問点且つ反省点だ。

 

というわけで、みんな天国に行けることになった。ぜひとも喜んでくれ。

 

どんな天国かというのもちゃんと考えた。

例えば、家族と当たり障りのない平凡な生活を営むことが幸せだと感じる人にはそれを。

人を殺すことが好きな人にはそれを。

パチンコを打ってることが好きな人にはそれを。

と、永遠にその人にとって幸せな生活が送れる世界。

それが各々に与えられる。

周りに家族等の人が必要なら精巧なレプリカを。

人気の少ない道が必要ならそれを。

パチ屋が必要ならそれを。

幸せな生活を送るために必要なものもそれぞれに与える。

途中で天国であると気づいてしまわないように、それぞれが個別に管理される。

そんな世界。それが、僕の考えた冥土。天国。

続いて書く

書くという言い回しが正しいのかはわからないが。

前回からなんと半年ほど経っているという…。

日に日に時間が短く感じるようになっている。

聞いたところによれば新しい体験をするほど一日が長く感じるらしいから、新しいことでも初めて見るのが良いのだろうか。

それほどのことをする価値があるのか。と思ったけれど、時間の少なさを痛感している自分にとって少しでも長く感じられることは良いことかもしれない。

つまらない、教師のつまらない話も良い体験なのだ。

もっとも、そうそう僕がつまらないと思うような話をしてくる教師はいないが。

 

進路についてああだこうだと言われていろいろとその辺について考えていると、最終的には毎度のように似たところに落ち着く。

つまりこうだ。

楽に儲けて悠々自適に生活を送れないものだろうか。

おそらくは誰もが同じようなことを考えて、結果的にはほとんどの人間が理想とは違った方向へ進んでせっせと働いていることだろう。

ということは、この理想というのはそう自己中心的は手に入らないようだ。

「働くということは傍を楽にすることだ」とひねくれた言い方で諭してこようと高校教諭が何度も同じ文を穴埋めでテストに出してきた。

しかし、僕は自己中心的な思考のもとにこう思うのだ。

「傍を楽にする理由がどこにあるのか」と。

「人という字は人と人が支え合ってできている」と金曜夜八時にロン毛の国語教師が言ったように、人間社会というのはヒト同士の相互作用によって成り立っている。

しかし、それは意図的に関わっているわけではなく、偶然の中で生まれる関係というのもある。

必ずしも人に関わろうとする必要はないのだ。

僕は昼食を誘われても断っているし、部活が終われば周りが話してるのを横目にすぐに帰るけれど、体育で二人組になれと言われれば早いうちに二人組になれる程度の友好関係を維持している。

要するに、高校に於いては最低限の友好関係にとどめている。

友好関係、つまり人間関係をそれほど重要視していない僕にとって「傍を楽にする」というのはメリットを感じず、やはりその意義は謎である。

 

適当に話題を絞り出して書き出したは良いものの結論というのが見えてこないからもうやめる。

書くという言い回しが正しいのかはわからないが。

メモにあったやつをそのまま

随想というのを書いてみたい。というよりも、自分に合うと思っているのだ。 というのも、私の思考というのはいつもこの文章のように人に聞かせるように行われているのだ。何かを考えるたびに私は自分の中で聞かせる相手を設定し、丁寧に物事を説明しながら、いかに自分の考えが論理的でしっかりとした筋道のもとに成り立っているかを感じるのだ。それにこうでもある。何かを考えている間にすぐに話題が逸れてしまうのだ。つい先程まで手塚治虫について考えていたと思えば、次にはドアノブについて考えている。という具合である。それの面白いのは、話が逸れるときにはいつも現実のものに目移りして逸れるのではなく、思考の紆余曲折によってそこにたどり着くのである。つまり、連想ゲームの如く手塚治虫がドアノブへと大変身を遂げるのだ。

 私の中学の時に聞いたところによれば、随想というものはその時の思いを好きに書いて良いようなのである。つまり、私の移りゆく説明的な思考の捌け口としては丁度良いと考えたのだ。


7/2 1:15:27

 オスプレイというのがある。私はそれを中学の時に知った。というのも、中学の時にニュースで「沖縄米軍基地へのオスプレイ配備に抗議」というような内容の報道を観たからだ。オスプレイというのは、ヘリコプターのように垂直に離陸したあと、空中でローターの角度を変えて零戦の先端に付いているようなプロペラとして利用することで、ヘリコプターよりも速い移動が可能な輸送機というのが私の理解だが、友人の言うにはヘリコプターの操作と飛行機の操作といった2種類の操作を覚えねばならないらしい。故に、操作が困難で事故が多くなり、それに反発する人間が現れるらしい。

 日本人がオスプレイに反発するというのは興味深いことである。というのも、元来日本は国土の狭く起伏が激しいために、省スペースで物事を進めなければいけないという制約が課されているのだから、日本人は滑走路を作らなくて済む垂直離陸機を歓迎すべきなのだ。それに、よく言われるように日本は米軍基地がある故に外国からの攻撃を免れているのだとすれば、オスプレイの墜落など小さなことではないか。

 と、このように書いているうちにどんどんと自分の考えの拙いのを感じてしまった。つまり、非論理的なままに、感情的なままに物事を考えていたと感じでしまったのである。実に面白くない事態である。一番最初にいかに論理的であるかを感じるといったが、論理的でなかった場合がこれである。深い反省を持たねばならない。